尾崎豊History
デビューから逝去まで 1983-1992 |
1983
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12月1日
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シングル「15の夜」アルバム-17才の地図-リリース。 |
1984
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1月25日
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「退学するなら私を殺してから行きなさい」
という母親の言葉を振り切り、退学届けを出しに行く。
この日、退学記念パーティーを友人の家で開き、
「街の風景」を涙を流しながら歌う。 |
2月12日
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千葉のライブハウスマザーズで、アマチュアバンドの前座として6曲歌う。 |
3月
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青山学院高等部中退。 |
3月15日
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新宿ルイードでデビューライブ。
ポスターには「卒業おめでとう!」と書かれていた。
その日は青山学院高等部卒業式だった。 |
3月21日
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シングル-17才の地図-リリース。 |
5月8~9日
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新宿ルイード |
5月30日
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KBSラジオ-ハイヤングKYOTO-
(リスナーの主催するライブ) |
6月15日
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6大都市ツアー-LIVE HOUSE
APPEARANCE-が始まる。
札幌のライブハウスペニーレインからツアースタート。(~6/28) |
6月26日
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広島ライブハウス-ウッディーストリート
声が思うように出ないのに腹を立て、ギターをたたきこわす。 |
7月1日
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日比谷野外音楽堂で、白井貴子のオープニングアクトとして出演。 |
8月4日
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日比谷野外音楽堂-アトミックカフェ-に出演中、
7mの高さの照明用イントレから飛び降り、左足を骨折。
ステージに這いつくばって最後まで歌うが、
この日以降のスケジュールは全てキャンセル。 |
8月25日
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シングル-はじまりさえ歌えない-リリース。 |
12月3日
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FIRST LIVE CONCERT ツアーが秋田市文化会館からスタート。
(~1985/2/7) |
12月11日
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岡山市民文化ホール
-愛の消えた街-を歌っている最中、突然ステージを降り、コンサートを中止にしてしまう。 |
1985
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2月
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世田谷区代田で、1人暮らしを始める。
下北沢に近い環状七号線に面したワンルーム・マンション
最初に作った歌は-坂の下に見えたあの街に- |
1月21日
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12インチシングル-卒業-リリース。
オリコンチャート初登場20位。 |
3月
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渡米、ニューヨークで1ヶ月暮らす。 |
3月21日
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アルバム-回帰線-リリース。
オリコンチャート初登場1位。 |
5月6 日
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Tropic of Graduation
ツアーがスタート。
立川市民会館からツアー開始。 計41本のライブ (~8/25)
このころ結婚した繁美さんと知り合う。 |
6月25日
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高知県民会館
コンサート中、ギターで会場をこわし、以後出入り禁止に。 |
7月5日
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単行本「未成年のまんまで」
CBSソニー出版より発売。 |
8月25日
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大阪球場
26,000人を動員。 |
10月21日
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12インチシングル-Driving
All Night-リリース。 |
10月25日
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小説「誰かのクラクション」
角川書店より発売。 |
11月1日
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LAST TEENAGE APPEARANCE
ツアーがスタート。
四日市市文化会館から10代最後のツアー開始 全国26ヶ所を回る (~12/27) |
11/14~5日
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代々木オリンピックプール
2日間で3万人を動員。 |
11月28日
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アルバム-壊れた扉から-リリース。 |
1986
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1月1日
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福岡国際センターにてライブ。
この日以降、活動を無期限に休止する。
販売権のトラブルなどの問題を抱えていた。
単身渡米。ニューヨークへ。(約1年)
ニューヨークでは、薬漬けの日々をおくる。 |
1月14日
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フジテレビ系列で、85年代々木オリンピックプールでのライブ
「早すぎる伝説」放送。
放映後、テレビ局、スポンサー、レコード会社に再放送を希望する署名が殺到。 |
3月26日
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「早すぎる伝説」再放送。
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7月
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フィルムコンサート「もっともっと速く」全国100ヵ所で上映。20万人を動員。 |
7月21日
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ビデオ-6 PIECES OF STORY-リリース。 |
8月21日
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単行本「失くした1/2」発売。 |
12月23日
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単身渡米をしてから断続的に約1年に及んだニューヨーク暮らしを終え帰国。 |
1987
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2月10日
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レコード会社「MOTHER&CHILDREN」設立と同時に移籍。 |
7月1日
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TREES LINING A STREET
ツアーがスタート。
茨城県民文化センターからツアー開始
(~9/24) |
8月5日
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広島平和コンサート。
渡辺美里のステージに飛び入りする。 |
8月6日
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広島平和コンサート。
当初予定になかったステージに出演する。 |
8月22日
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熊本 BEAT CHILD
どしゃぶりの雨の中でライブ。 |
8月23日
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熊本 BEAT CHILD |
8月29~30日
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有明コロシアム。
2日間で2万人動員。 |
9月24日
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豊橋勤労会館。
急病の為、ライブを中断。 |
9月28日
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新潟の会場に入るが、激痛のためステージをキャンセル。
ツアー中断。 |
9月30日
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入院。
入院中、何度も病院を抜け出し、外泊を繰り返す。 |
10月1日
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12インチシングル-核(CORE)-リリース。 |
10月21日
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ライブアルバム-LAST TEENAGE
APPEAARANCE-リリース。 |
12月22日
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覚醒剤取締法違反で逮捕。東京拘置所で60日間をすごす。 |
1988
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1月11日
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覚醒剤取締法違反で起訴。
懲役1年6ヵ月、執行猶予3年。 |
2月22日
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東京拘置所(小菅)から釈放。拘禁中に-COLD
JAIL NIGHT-を作る。 |
5月12日
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繁美さんと入籍。 |
6月21日
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12インチシングル-太陽の破片リリース。 |
6月22日
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フジテレビ「夜のヒットスタジオ」に最初で最後の生出演。
「どうも、ご心配をおかけしました。
僕の素直な気持ちを曲にして、これからずっと歌っていきたいと思ってます。」
と、コメントする。「太陽の破片」を歌った。 |
9月1日
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アルバム-街路樹-リリース。 |
9月12日
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東京ドーム、LIVE CORE-復活ライブ。5万6000人動員。 |
12月1日
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写真集「WORKS」発売。 |
1989
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2月21日
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ビデオ-LIVE CORE-を発売。 |
7月24日
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長男裕哉君誕生。 |
1990
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3-4月
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「ROAD&SKY」に移籍。浜崎省吾と同じ事務所。
レコード会社もCBS・ソニーに再移籍。 |
4月
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「月刊カドカワ」で「黄昏ゆく街で」連載開始。 |
10月21日
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シングル-LOVE WAY-発売。
この頃、女優の斉藤由貴と雑誌の対談で知りあう。 |
11月15日
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アルバム-誕生-リリース。 |
12月1日
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シングル-黄昏ゆく街で-リリ-ス。 |
12月19日
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独立し、自ら有限会社ISOTOPE・株式会社RADIO
ISOTOPEを設立。 |
1991
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1月21日
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シングル-永遠の胸-リリース。
この頃、女優の斉藤由貴と煩雑にデート。
3月には、写真週刊誌にとりあげられる。 |
2月28日
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小説「普通の愛」角川書店より発売。 |
3月
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オフィシャルファンクラブ-EDGE
OF STREET発足 。 |
3月21日
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シングル-I LOVE YOU-リリース。 |
5月20日
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BIRTHツアーがスタート。
横浜アリーナ 3DAYSからツアー開始 (~10/30) |
10月29日
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代々木競技場第一体育館。
尾崎は、この日のステージを「生涯最高のライブ」とコメント。
この頃、不倫騒動終結へ。 |
12月29日
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母、絹枝さん急死。 |
1992
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2月29日
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写真詩集「白紙の散乱」発売。角川書店。 |
3月30日
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ライブビデオ-TOUR 1991
BIRTH-発売。 |
4月
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アルバム-放熱への証-レコーディング終了。 |
4月25日
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4 月 25 日 早朝、泥酔状態で発見され救急車で墨田区の病院へ運ばれる。
帰宅するが、帰宅後、容体が急変
すでに呼吸は停止、文京区日本医科大学付属病院へ運ばれる。
午後12時6分、死去。死因は「肺水腫」・享年26歳 |